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プロフィール

学生帽とマント姿の若き日の市澤順一
50年前の写真

紆 余 曲 折 の 遍 歴

1950
1月28日に東京都北区王子二丁目で生まれる。
1962
東京都北区立王子小学校卒業。初恋の人は5年生の時に釧路へ転向してしまった。東京学芸大学付属小学校も受験した。合格したが、通学に遠いのでヤメタ。付属の入学試験では『先生が立てて持っている棒に平たい紐を蝶々結びにする』試験が出たのを記憶している。何とか綺麗に結べた。
1962
私立開成学園中学校入学。(その頃は今のような難関校でなかった)小学校のクラスメイトが受けるので、自分もという軽い気持ちで受験。王子小学校から3名合格。入学したら、期待していた内容と異なり、早々と五月病となり、やる気喪失。人はほんのちょっとのことで、やる気を喪失。今考えると、他責にして自己弁護。今でも覚えているのは英語の授業で2度続けて失敗。それでも、卒業までいられたのは他責にすることで、ストレスを抱えすぎなかったことが良かったのかも。いい加減な気持ちも必要。
1968
開成学園高等学校卒業(6年間を通して遅刻も多く、成績も悪く、退学にならずに、よく卒業できたものだと痛感。先生方に感謝)この6年間+浪人2年間の計8年間は闇の世界。良い友人達がいたので何とか生き延びた。その頃の自分の部屋の壁は緑と紫と白で塗られていた。危ない芸術家。鬱屈とした日々で危なかった。学校の成績が悪いと、どうしても劣等感を覚えてしまい、より悪循環に陥ってしまいがちだが、『劣等感』って、比較の問題であり、考え方ひとつで変わる。・・・が、なかなか抜け出せない。中学3年から高校へ進学する時に一人落第して公立高校へ転学したが、彼はその後ストレートで東大に合格した。私も中学3年の時に、学校の図書館でマリウス・B・ジャンセンが書いた『坂本龍馬と明治維新』という本を読んで坂本龍馬が好きになり、維新の頃の歴史が好きになり、高校3年の日本史では98点を取った。龍馬でも、ナポレオンでも、シーザーでも、誰かを好きになると、その前後の歴史に興味がわいてくる。持統天皇が天智天皇の娘だというのも衝撃的。どうも、好きでないと気が入らないタイプなのは困ったもんです。勉強でも何でも、興味が持てて、楽しいと思えることが重要。ほんの些細なことから興味を持てることがある。そのキッカケが大事。ただし、勉強でも何でも、教科書や先生は大事だが、それに拘りすぎると、ステップアップができなくなる。先人と同じレベルで満足するのではなく、先人を超える。教科書のレベルを超える。特に歴史は、過去の記録文書の読み方で変わってくるし、本当のことを書いてなかったり、わざと異なったことを書いたりしている。歴史文書は誰が書いたのか。勝者側が書いた。敗者が書いたものも嘘はある。また、事実とは異なった解釈をしていることも多い。例えば、江戸時代に『入り鉄砲に出女』という言葉があり、関所の監視が厳しかったというが、伊勢参りや富士講や大山参りなど、年間百万人以上が大移動している中で、本当に関所で厳格なチェックができていたのか疑問。また、昔の旅ではテクテクと歩いていたようだが、昔は今以上に船の利用(舟運)が発達していたので、意外と寝ながら楽に移動できていたようにも思える。江戸時代の日本全国の舟運についての研究書も読んでみたい。教わったこと、読んだこと以外に、一度は異なる角度から客観的に見ることも重要。剣道でいうところの『守破離』のスタンス。
1970
2浪の末、群馬県高崎市立高崎経済大学へ入学(授業料が安かった)たまたま、古武道と竹刀稽古の両方をしている『直心影流剣道部』へ入部。体力が回復したら8年ぶりにやる気が出てきた。この剣道部での4年間で人間はやる気、体力、楽しさが重要だと感じた。特に人生には楽しさが重要。好きになれば楽しくなる。剣道部で記憶に残るのは・・・私はマラソンが苦手だったが、剣道部は毎日ランニングをしていた。下級生の頃は苦しかったが、自分が3年生になり、先頭に立って引き連れていくと、後輩たちを見ながら自分のペースでスピードを上げたり下げたりすると、後輩たちのリズムが乱れ、苦しくなっているのを見ていると、自分は快調になり、どんどんペースを上げていくことができた。同じ距離なのに、自分がリードしていくか、人についていくかで苦しさや楽しさが変わってくることを実感した。(意地の悪い、やらしい先輩でもあった)もう一つの記憶…直心影流剣道部では『振り棒』という練習があった。長さ1.6m位、重さ10kgくらいの木の棒を竹刀のように振る練習です。2年生から3年生になる冬にやるのですが、通常は200回くらいで止めてしまうのですが、その時はどういう訳か、1,000回を超えても調子が上がってきて、1,200回を超えてきました。その時、回数を数えていた先輩(中尾先輩)がもう止めようと声をかけてきました。確かに、時間にして2時間くらい振っていて、数える方も嫌気がさしていたみたいでした。仕方なく、そこで止めましたが、不思議なものでゾーンに入っていたのか、私自身は少しも疲れていませんでした。やはりマラソンの時と同じで自分が主体になり、楽しく感じていると不思議な力が湧いてくるものだなと感じた次第でした。授業では高階先生の西洋経済史のゼミに入った。・・・ここで歴史とは、歴史上に名前が出てくる人物だけではなく、農業生産性の向上などの経済面が大きな要素を占めていることが理解できた。農業生産性が上がると、人があまり、彼等は武器を持って生きていく。そこに金・銀(その後は貨幣)が流通するとそれを持って武装集団が移動できるようになる。また、人が余ると技術開発などに従事する人間も出てきて、新発明も生まれる。と、久しぶりに西洋経済史のゼミを思い出したが、内容はマルクス経済学で、外書輪読もモーリス・ドップなどであったが、今ではその名を聞くこともない。ただし、人間は平等で、平和な世界がそのうち到来するというマル経の影響は今でも残っている。概して共産主義を信奉する人は独善的で、単純で、自分が最も賢いと考えている人が多い。その為、同志間の争いは避けられない。所詮、人間も含めて、生き物は生存競争から逃れられない。動物だけでなく、植物にも生存競争がある。保育園、幼稚園、小学校、高校などでの『いじめ』をなくすことができれば、世界に戦争をなくすことができるが、どうしたら良いのだろうか。
1974
伊奈製陶株式会社(株式会社INAX、その後株式会社LIXIL)入社。元々、シャワートイレが好きで、日本中のトイレをシャワートイレにしてやろうの意気込みで入社。子供の頃は和風便器だったので、長い時間踏ん張っていると足が痺れた。これを解消するには洋風便器が良いが、洋風便器は踏ん張れないので便秘になりがち。それを解消するためには温水洗浄便座が重要。➩詳しくはシャワートイレの項を参照。温水洗浄便座・・・INAXはシャワートイレ、TOTOはウォシュレット。今になってみると、入社時に期待した以上にトイレが綺麗になった。なりすぎたとも思う。本来、トイレは下界から隔絶された、孤独に思索を練る場であってほしい。私の理想のトイレは、密閉、遮音されていて、中で静かに座っていられるトイレ。さらに、トイレ内の照明の照度も自分で調整できれば良い。
1974
最初の配属先は愛知県常滑市の本社経理部電算課(現 情報システム部)だった。入社時の営業希望と異なってガッカリしたが、経理部といっても算盤(そろばん)ではなかったので安堵した。INAXは早期に情報システム機器(コンピューター/日立のHITEC)を導入していた。このプログラマーを経験したお陰でIT時代に突入しても抵抗感を持たなかった。
1978
4年後、希望が叶い大好きなトイレなどを扱う本社住設事業本部へ異動上司に恵まれ、自由に活動できた。
1978
住設事業本部へ異動してからの最初の担当は下水道が整備されていない地域が対象の軽水洗便器『トイレーナ』という、非水洗便器(汲み取り式便器)ではあるが少しの水で臭いや汚れを軽減する特殊な便器のプロダクトマネジャーを担当し、期待以上の販売に成功。ご褒美として技術導入先の米国へ視察に行かせてもらった。シカゴの工場を視察した時に、働いていたのはルーテーズに似たイタリア系移民。やはり、アメリカは移民の国だと実感した。アメリカは人種の坩堝といわれていた。ただし、その頃は暴動も起きていて、工場は高いコンクリートの塀と鉄格子で囲まれていた。日本がバブルで沸いていたころのアメリカを体感。一方、ワシントンのリンカーン記念堂を訪れた時の説明で、この建物は第2次大戦中に当時の日本の国家予算の半額で建てたと聞いて、こんな国と戦争したら負けるに決まっていると感じた。当時の、アメリカ駐在の大使館員は何をしていたのかと、愕然とした。
1981
希望していたシャワートイレのプロダクトマネジャーを兼任シャワートイレC1という製品にも注力。歴代のシャワートイレではKシリーズが最も高性能であったが、現在は廃番。
1982
商品教育のための研修センター創設とともに住設商品教育、人材教育の担当へ
1983
社名変更のためのプロジェクトである社長室CIセンターへ異動
1985
CIセンターの一員として伊奈製陶株式会社から株式会社INAXヘ社名変更。社名変更は創業者の子息である伊奈社長が、精糖会社と間違えられたり、陶器以外の製品を作っている会社になっているので、製陶という名称はふさわしくないことと、社名に創業者の個人名が入っていると、創業家に忖度して将来にわたって社名の変更もできないと考えて、決断したものです。当初は社名変更に反対の声もありましたが、伊奈社長の不退転の決意で進められました。結果的には大成功をおさめ、その後東京のアークヒルズの最上階に世界の水回り製品ショールームを開設したことにより、学生の応募も拡大し、会社の成長に大きく寄与しました。私も全社員の氏名で構成した新社名ポスターを制作したりして貢献しました。今でも、唯一思い出される心残りは・・・東京帝国ホテルで特約店の責任者を集めて開催した創業祭で、INAXの歴史を綴ったスライドを放映しましたが、その中で、当日の来場者を撮影したスライドが最後に流れるシーンを作ったのですが、その感動のスライドが始まる寸前に帝国ホテルの担当者が会場の照明を点けてしまったことです。歴史を映したスライドに、今入場してきた来賓が写るのを見た時に、自他ともに新しくなったという感動が伝えられなかったのは残念至極でした。
1986
住設事業本部/東京へ異動/戸建てユニットバスやシステムキッチンの教育担当
1997
上司との軋轢により、京都支社住器市場課長へ左遷。給与も大幅にダウンも京都を堪能。
1999
INAXの子会社で工事部門である株式会社INAXエンジニアリングへ出向。左遷かもしれないが、工事部門で現場を担当したお陰で実際の施工知識が充実した。商品知識の教育担当が実際の施工現場も経験できたので、現在に大いに活きている。与えられは環境を深堀していくと、その環境が楽しくなり、興味がもて、将来にも活きてくることが多い。
2001
INAXエンジニアリングで経営しているリフォームショップ『LIFA経堂』を担当して黒字化へ。リフォームは自社製品だけでなく他社製品も扱うので、さらに知識や視野が広がっていく。
2003
INAXエンジニアリング常滑本部へ異動
2003
3点式ユニットバスのセパレートタイプへの『簡単リフォーム工法』を開発
2005
RC既存建物での『和風便器から洋風便器へのone dayリフォーム工法』の開発
2008
『在来浴室の洗い場の床暖房リフォーム工法』の開発。『特殊温水マット』の意匠登録。在来浴室のタイルの床が冷たくて困っていたユーザーには好評だった。今でも、お仕着せのユニットバスでは満足できない、独自デザインの在来浴室を望むユーザーには最適だったが、施工現場での複数の職種(タイル工事、ガス工事、電気工事)の工事業者への施工指導が必要だったため、広く展開できなかった。施工実績は30現場程度だったが、ユーザーには喜ばれた。
2009
INAXの子会社で、特約店の役割を果たしていた株式会社テムズへ出向
2010
株式会社INAXを定年退職。

その後、色々あり、現在地。『禍福は糾える縄の如し』を実感。伊奈製陶の社是であった『共存・共栄・至誠・奉仕』の精神が今も流れている。

人生は努力5%、運95%。めげずに努力。好きこそものの上手なれ。

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